http://
『CLANNAD』以前のほぼすべてのPCノベルゲームは、「学校」での社会関係(恋愛、友情、対立)を表現する作品でした。一方、 『CLANNAD』の特徴は、既存作品の恋愛要素を踏襲することにより一定のユーザーを確保しつつ、作品全体の3分の1程度を、高校卒業後の、学校外での 社会関係(職業、家族)の表現にあてていることです。恋愛や戦闘、恐怖のような非日常だけではなく、普通の人たちのありふれた日常の世界も、ノベルゲームの重要な主題になりうることを示し得た傑作でした。「CLANNADは人生」という決まり文句は、この作品の本質を良く表現しています。同じ主題は『智代アフ ター』でも継承されています。
職業のような日常の世界を表現した作品に、『ひぐらしのなく頃に』があります。同作品は、殺人事件のような非日常の表現が注目されましたが、本作品の大きな魅力の1つは、シナリオライターの竜騎士07さんの公務員体験によって支えられた、日常世界の表現の厚みであった、と個人的には考えています。彼が、自分の個性を非日常の表現にあると考え、『うみねこ』以降の作品で日常表現を薄くしていったことを、個人的には残念に思っています。
日常と非日常の明確な境界が消失し、遊びや逸脱的趣味のような非日常的なものへの接近が容易になった現代日本社会では、非日常の体験が能動的、嗜癖的(addictive)に求められる一方で、日常と非日常の各々が、1990年代前半まで持ち得た、強い引力、統合力、拘束力を失っているように見えます。こうした時代には、非日常を描く作品が人気を博す一方で、『AURA』『灼熱の小早川さん』『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』のように、 「普通である(間違っていない)とはどういうことか?」を描く日常系の作品も、人生の指針や見通しを与えるものとして求められているように感じます。
http://
参考:
山田真茂留,2009,『<普通>という希望』青弓社.
山田真茂留,2010,『非日常性の社会学』学文社.
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。